「罰が当たる」とは、神様が、悪い行いをした者に対して、罰を与える事。この場合の神様には仏様も含まれるだろうし、罰と言うのは総じて「辛い・苦しい」の意味だと思う。つまり誰も見ていないからと言って悪さをすると、神様が見ていて、後で怖いよ~と言う事。
最近は、この「罰が当たる」と言う事を、信じていない人が多い。だから仏像を盗んでみたり、お地蔵様の首を折ったりするのだろう。その他にも樹齢何百年と言う大木に傷を付け、太古の遺跡に名前を彫ったりする。そんなことを平気でしている人に対して、声を大にして言いたい!「罰が当たるよ~」と。
もっとも人が見ていない所で悪さをしている人全てが、罰を恐れていないのかもしれないが、罰ってきっと当たるような気がする。大人は子供に、こう言う事をシッカリと教えるべきだと思う。
これに近い事で言うと、家の中に怖い場所が無い子供が、増えているような気がする。昔なら、「廊下の突き当たりのトイレ」とか「2階に上る階段」とか「押入れの中」と言った怖い場所が必ずあった。それは人それぞれに違った場所で、それが大人になるにしたがって、違う場所に変化したり、あるいは無くなったりしたもんだ。
つまり昔は、何か意味の分からない物を怖がると言う気持ちは誰にでもあったし、そしてそれが悪い事ではなかったと言う事。その気持ちが時として自分を律し、戒める事にも繋がったからだ。今は自分で自分を抑えられない。そして他者としての誰か、例えばそれが親でも兄弟でも親友でも良い、そんな人の気持ちが抑えてくれることも無い。そして罰を与える何かに対しても怖いとは思わない。
でもそれじゃあ、あんまりにも寂しくない? 何かに助けられたり、何かを怖がったりすると言う事は、「自分は絶えず一人じゃない」と言う事を自覚する事に繋がっている。お盆が近づいてるから言うわけじゃないけど、誰かが見ているし、誰かが支えてくれている。孤独感に苛まれる事は若者の特権だけど、心から信じあえる親友を作れると言う事もまた、若者の特権だったりするのだから。
・・・・・・と、おじさんが言ってみたりするのだが、さてどうでしょう。
コメント
こんにちは。
探偵長様の温かい言葉が、こんなおばさんの心にも、すうっと染みこんできました(笑)
昨今の個人権利主義のメタボ症候群のような歪んだ肥大化が殺伐とした社会を生み出してしまったんですよね。オンリーワンの自分が一番素晴らしいなら、誰も自分に罰など与えるワケがない!という思いあがり。世界に1人しかいないからこそ、自分自身を鍛錬しないといけないという痛みや辛さには、都合よくスルーしてオイシイとこ取りばかりです。でも、誰の中にもあるはずの「住み良い社会、幸せな社会、自分が貢献できること」という理想を目指して心のトレーニングをすれば、まだ今なら引き返せるのじゃないかと、楽観的に考える自分も確かにいます。
杉江松恋氏のサイトに、宮部みゆき先生との対談の思い出が綴られているのですが、なるほど小説をはじめ本とはそういうものなのだと思いました。
お暑うございます。
私は神様を信じていませんし、特別な宗教に傾倒しているわけでもありません。でも、「罰は当たる」的な、曖昧模糊とした何かは信じています。
例えば、山道を歩いて居る時に出会った「お地蔵さん」に、手を合わせないまでも、目礼ぐらいはするでしょうし、神社仏閣に行けば、若干でも神妙な面持ちにはなるでしょう。そう言う自分以外の何か、あるいは誰かとの繋がりを感じたり、持とうと意識しないと、それはとても孤独なことだと思うのです。本当の意味での孤独とは、そう言った事柄を忘れてしまう「意識の中」にあるのだと思います。携帯が鳴らないから孤独な訳じゃないと思うのです・・・。
SMAPが歌っていたオンリーワンの良さを、都合良く捻じ曲げて拡大解釈した成れの果てが、「他者に迷惑掛けなければ何をしても良い的思想」でしょう。オンリーワンと言うのは、自分の価値を知り、他者の価値を認めると言う事だと思うのですけどね・・・。