家を造るとき、設計者と施主、あるいは設計者と施工者が、ある意味で一心同体に成らないと、良い家は完成しない。これ経験上、「絶対」と言い切れる話。互いに反目しあっていたり、家に対する考え方に相通じるところが無いような場合、完成した家は何処か変てこな部分が生まれてくる。
よく考えると、これはどんな事にも同じ事が言える。例えば御贔屓のプロ野球チームを応援するとき。負け続けて地団太踏む事を踏むことなんて、熱狂的であればあるほど良くある話、それは分かる。だからと言って選手に当たってどうする? 叱咤激励は大事なことだが、罵り合って、いがみ合うことで結果が出るとは思えない。人が人を罵るとき、その言葉の中には沢山の毒が混ざって吐き出される。そしてその毒は相手ばかりか、自分さえも傷付ける。そんな関係を信頼関係とは言わないし、良い関係とも思えない。昔、一休さんも言っていたじゃないか、「あわてない あわてない」ってね。昨夜の赤星の怒った姿を見て、そんなふうに感じたわけ。
大切な事は、まず信頼しあう。
励ましあってこそのチームで仲間。世知辛い世の中だからこそ、そんなふうに思いたい訳です。
コメント
おはようございます。
最近の風潮として、あまりにも時間的スパンが短すぎるように思います。
目に見える現象しか捉えないというか、これまでのこととこれからのことを時系列に並べて見るとかそんな作業をすっ飛ばしてしまうような…。
時間を発明した人間なのに、過去も未来もなく、目に映ることしか考えない、動物的な感覚。瞬間的に腹が立ったらその気分のまま激昂してしまうのですね。
多少のことには動じずゆったり構えている人がカッコイイのも頷ける気がします。そしてそんな人ほど、人と調和するとか信頼するとかいうことを、ちゃんと分かっているのではないかと。(←自戒の意味を込めて)
確かにある意味で、動物的な飯能と言えるかも知れませんね。理性的でなく、思慮分別も無く、感情の赴くままに声に出し、態度に出す。全てにおいて衝動的。
日本人て、もっと穏やかで温厚だった筈なのに、一体どうなっちゃったんでしょう・・・。肉の食べ過ぎでしょうか?(笑)
子供に対する「ゆとり教育」とは、大人が楽をするための方便ではなく、子供を堕落させる時間でもない。手に触れる土の感触に何かを感じ、道端に咲く花に何かを思う感性を育てる為の「ゆとり」で、なくてはならないと思うのですが。
あはは、訂正です。
飯能←×
反応←○
↓