疑わしきを糾弾する危うさ


子供の頃、「人の陰口を叩いてはいけない」とか「後ろ指を指してはいけない」と、躾けられた。
子供心に、その意図する意味を理解した。
それから少し大人になった頃、「疑わし気は罰せず」とか「推定無罪」という言葉を、本の中で知った。
子供の頃に教えられた事と少しだけ意味は違うが、法律的にも、そんな考え方があることを知る。
更に数年経ち、PCと言う小さな箱が、「匿名性というマントを被れば何を言っても構わない」という刺激的なオモチャとして普及し始めた。いつしか子供の頃に教わった戒めも、その箱の中に居る時だけは、少しずつ忘れても良いような気分になった。だがそれにも限度があった。言い過ぎた過激な発言は処罰の対象となり、《誰かが見張っている》と言う印象を箱に与えた。
ひとたび箱から離れると、リアルな社会では今も「疑わし気は罰せず」と言う法律は生きていた。
だがそれも危うい時代に変わりつつある。国が《疑わしきを糾弾》する時代が始まったからだ。
何かのリミッターが解除された瞬間なのかもしれない。
疑わしきを糾弾し、グレーは叩いても良いと匂わせることを、国が認めたと言っても過言ではない。
「人の陰口を言ってはいけないよ」と教えてくれた祖母が聞いたら、一体なんと言うのだろう。
「陰ではなく表で公言しているから良いのだよ」とは、けして言わないだろう。
国家の威信に掛けての捜査が、結果を出せなかったからといって、まるで八つ当たりのような振る舞いを取ることは極めて危険だと思う。
「迷える国家・日本」な、今なのかもしれないと、少し怖さを覚えた。