認められる暴力など無いのです
私は子供を叩いた事がありません。
勿論、叱ったことはあるし、大きな声で怒鳴ったこともあります。
でも何年か経った今、あんな叱り方をしなければ良かったと、私の心の傷となって残っています。
自分が子供の頃に、親に叩かれた記憶もありません。
せいぜい、押入れの中に閉じ込められたり、玄関の外に立たされた程度の話です。
昔の叱り方って、そんな程度だったと思います。
でもグレる事も無かったし、家の中で暴れることもありませんでした。
中学、高校生時代に、学校で教師が生徒を殴ることはありました。
平手だったり拳骨だったこともあったと思います。
宿題を忘れたときに、硬い出席簿の角で頭をコツーンとやられるのは、涙が出るほど痛かった。
でもけして、他の生徒への見せしめで殴ったりすることは、ありませんでした。
そして今思えば、どの場面であっても、殴らなくても済む話ばかりだったような気もします。
最近、体罰の是非論をメディアで耳にするたびに、「必要な体罰って、一体何時からあったのか?」と、考えてしまいます。そして、「いつから体罰は受任されるべきものであり、否定されるべきものではない」と、言った論調が成立したのだろうかと考えるのですが、どうしても私の中には、そんな解釈は思い当たらないのです。少なくても私は、そんな論理が世間で認められているとは、思ってもいなかったからです。
体罰を、「愛のある許される暴力」と言う人が居ます。確かにそういえば、なんとなく「教育の一環」のようにも聞こえます。でもこれを成人した男女間に当て嵌めると、「ドメスティック・バイオレンス」と呼ばれ、刑事罰を受けることになります。でもどちらも、「愛があるゆえの暴力」・・・・・・ですよね?
片や認められる暴力で、片や否定される暴力なんて話は無いのです。
DVは男女間だけでなく、社会においても有り得ます。(厳密には家庭内暴力だからDなのですが、そこは広義に解釈しての話です)
上司に怒鳴られたり、恫喝紛いの脅しを受けたりすることもあるでしょう。そう言うの大嫌いです。
大きな声を出し、他者を威嚇することで自身の力を鼓舞し、怒気を含んだ荒言で罵る人の様は、なんと醜く下品なことか。
大人の私が見てもそう思うのですから、子供になど見せたく無いし、子供が大人になったときに、そんな様を他者に見せるような下卑た人になって欲しく無いと願っています。
親だから許される暴力などありません。
教師だから許される暴力もありません。
恋人だから許される暴力も無ければ、上司だから許される暴力も無いのです。
小さな暴力を否定しなければ、大きな暴力も否定出来なくなってしまいます。
宗教が違う場合の暴力は仕方が無い。
利害が絡む場合の暴力は仕方が無い。
思想が違う場合の暴力は仕方が無い・・・・・・なんて話は無いのです。
誰もが分かっている筈なのに、実践するのは難しい。
でも、実践しようと頑張る人が居なければダメなことも、また確か。
異国での銃による殺戮と、青年が自殺に追い込まれた体罰は、どちらも同じ暴力だと言う事を知るべきです。ふだん殺人事件の本ばかり読んでいますが、そんなふうに思っています。
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