直ぐ近くに、90度に折れ曲がる狭い道路がある。角の手前も向こう側も少しだけ広くなっており、対向車と擦れ違う程度の事は出来るのだが、なんせその角の部分が狭く、先に角に入った車が居たら、対向車は止まって待たないと、ぶつかってしまうぐらいだ。
ところが今朝、そんな狭い曲がり角に、一台の小型車が停められていたのに気付いた。「こんなところに停めていたら、余計曲がりにくいし、事故が起こって危ないんだけどなぁ・・・・」と思いながら、その車を眺めたところ、フロントとリアガラスに「この車はバッテリーが切れて動けない故障車です」と、書かれた紙が張られていた。
なるほど、そう言うことかと納得しながらも、少し考えさせられる光景でもあった。私の思考としては、この車の持ち主=高齢者=高齢者には移動手段としての車は必需品=でもいざ故障の際に対応が出来ない=近隣の迷惑=さてどうする?と、繋がったからだ。
それと言うのも紙に書かれた文字は、筆で書かれてた達筆な文字で、若い人の書いたものと言うよりは、年配者の書いたものと考える方が適当な事。また、若い人が運転している車なら、携帯で家族や友人に連絡し、マンパワーで車を移動させる事も簡単だろうし、ケーブルで繋ぎ、セルを回す事だって出来る筈。また、歩いて10分ほどの所にはガソリンスタンドだってある。それなのに放置していると言う事は、それらの手段が思いつかなかったか、出来なかったと言う事。だから年配者だと思った訳。
ひょっとしたら、とんでもなく常識ハズレの人かとも考えたのだが、キチンと張り紙をしていることからそれはない。つまり常識があり分別もあるのだが、動かなくなってしまった車を、曲がり角の危険な位置から動かす事が出来ない人だと思ったのだ。
思考の道程は兎も角、今後ますます高齢化していく中、モータリゼーションの問題、道路、税金と言った事柄が、全ては安全に繋がっていくのかもしれない。そしてその安全の確保が如何に大変かと言う事を、日常の些細な事から感じ取れる感覚もまた大切だと思う。
その故障車が停まってしまった時に、誰かが助けて上げられれば、それが一番良い解決方法だと思うのですけどねぇ・・・・。