近所に、車椅子を利用されている方がいる。時々、おばあさんに押してもらって散歩しているのを見かける。今朝も散歩しているのを見かけた。朝の早い時間に散歩するのは、この時期気持ちが良いのだろう。(ちなみに今は7月の末で連日の猛暑続きの真っ最中である) いつもなら、それだけのことなのだが今朝は何故か、昔のことを思い出した。
学生時代に、看護学校に通っている女性と短い期間だけお付き合いをしたことがある。正確にはお付き合いまでいってなかったかもしれない。(実はこの女性と出会ったときに、私には超能力が有るのではないかと思う不思議な体験をしたのだが、それはまた別の機会に書く事にする)
あるとき、彼女と電話で「身障者への接し方」みたいな話題になった。(何故そんな話題になったのかは全然覚えていないのだが…) ところが、お互いに子供だったので相手の意見を尊重できず喧嘩になってしまった。私は「健常者が手を貸さなくても自立できるまちづくりが重要だ」と言うと、彼女は「手を貸してあげる健常者の優しさが全てだ」と言った。
この意見の違いは、私が「建築」、彼女が「医療」の勉強をしていると言うフィールドの違いも影響していたようだが、その時には気が付かなかった。話しているうちに、お互い感情的にエキサイトして最後には受話器を壊れるほど叩きつけて彼女とはおしまい。二度と話すことは無かった。 若かったんですねぇ~
それでは、今は考え方が変わったかと言うとこれが変わっていない。 なぜなら、今でも一歩街に出たら車椅子の利用者が一人では動けないような場所ばかりが目に付くからです。
例えば、道路の拡幅工事。道路の幅を広げて歩道も広げて「どうです!きれいになったでしょう!」と造った人は言うけれど、実際には段差がきつくて車椅子では通れない場所ばかり。
買い物をしようにも、洒落た階段が付いていて店の中に入ることも出来ない有様だ。嘘だと思うなら一度、注意して自分の街を観察してみると良い。車椅子の方が一人で、行ける場所はかなり限られていることに気が付く筈です。
よく「人に優しいまちづくり」というスローガンを聞く。県や市の広報誌やテレビのCMで聞くフレーズだけど、あれは一体どう言う意味だろうか悩んでしまう?誰を指して「人」と言っているのだろう?車椅子ばかりではなく、赤ちゃんを乗せたベビーカーでも不自由さは同じだ。お母さんなら誰でも一度や二度は辛い経験をされたことがあるはず。 いつまでも、そんな「街」で良いとは思っていない。
だから私は今でも「健常者が手を貸さなくても自立できるまちづくり」が重要だと考えている。その上で手を貸せる優しさを持っていたいと思っている。
先日、駅で電車を待っていると白い杖を突いた人が歩いてきた。電車がホームに入ってくるまでは問題無かった。ところが、電車が到着し扉が開いても乗り込むことが出来ないで困っていたのだ。ホームは込んでいて、乗り込むタイミングが判らなかったらしい。でも、誰も手を貸さないし声も掛けない。 会社では人格者の部長さんも、家では躾に厳しいお父さんも、誰も彼には見向きもしない……なんとも切ない光景だった。(当然、私が行きました…念のため)
先日、ある大学で車椅子でも利用できるトイレ・マップを作っていると言うニュースを見た。少しだけホッとした気分になった。
あの時、電話で喧嘩した彼女も、ベビーカーを押しながら、不自由さを感じたのでは無いだろうか…。