Essay 16 携帯電話

携帯電話が壊れてしまった。充電出来なくなり、電池が切れて使えなくなってしまった。仕事柄、無いと困るので新しいものを買うことにしたのだが、3日間ほど待つ事になった。つまり携帯電話を持たない日が、出来たわけだ。



私の場合、携帯電話を持ち始めたのは最近のこと。だって、携帯電話が好きではなかったし、周りの人が持っているのを見ても必要とも感じなかったから。



だいたい、携帯電話と言うものは「コミュニケーションの邪魔」をする道具だと思うし「使う人のモラルを実にハッキリと周りにアピールしてしまう」言ってみれば、少し怖い道具ですよ。「コミュニケーション・ツール」なのに「コミュニケーションを邪魔する」から不思議だ。



例えば、打ち合わせをしている最中に、相手の電話が鳴る。すると、「ちょっと失礼。はい、もしもし」と言う具合に、こちらを待たせて電話で話し出す。その間、こちらは相手の電話が終わるのを、ボーッと待っていなければならない。「打ち合わせ中は電話切っとけよ!」と思っても、言えるわけが無く、ただ待たされるだけ・・・。もともと、電話と言うのは相手の都合に関わらず、プライバシーに入り込むゲリラ的なコミュニケーション・ツールである。



相手が食事中だろうが、寝ていようがお構い無し!それでも、家の中だけならまだ我慢も出来るが、外にいる時まで割り込まれるのは辛いことがあるし、携帯電話を持っている本人は構わないかもしれないが、周りが迷惑することの方が多い。


一人一人のモラルの話だが、そんなことをいくら言ってみても「モラル」の意味さえ知らない馬鹿者が多い世の中では意味の無いこと・・・。(なんか寂しい・・・)



そのうちに、この国でも「携帯電話」に関係する裁判沙汰がきっとおこると思っている。例えば、

「電話が原因で起こした自動車事故の電話の責任」とか、

「映画館で鳴り出した携帯電話の音が原因でけんかになった」とか

「満員電車の中でペースメーカー利用者に被害を与えた」等など。考えればきりが無いが、携帯電話の普及がもたらす2次的な被害は現在も多く有るし、今後は裁判などでその利用の仕方が争点になることもあると思っている。



だけど、こんなに愚痴っている私でも持っている。(自己矛盾・・・)もっとも私の場合は一人で仕事をしているため「連絡が取れなくて困る」と周りに言われて持つ羽目になったのだが、それでも本当に「火急の用件」はほとんど無い。だから、私は持っているだけで自分からは使わない。電話をかける必要が有るときは、公衆電話を利用するから携帯電話は電話帳代わりだ。だから、電話が壊れてしまって不便と言うより、電話帳が無くなってしまった不便さを感じている。



少し大袈裟に言うと、人は「便利さ」と引き換えに「優しさ」を売り渡しのだと思っている。世の中、資本主義一辺倒「売れさえすれば何でも売る」と言う考え方が鼻に付く。その結果、時間の流れまでもが早くなってしまった。朝も昼も夜も無い世界のようだ。



以前、工事中の住宅に「ベニヤ板」で、事務所の看板(広告かもしれない)を掲げたことが有る。現場から貰ってきた「ベニヤ板」に自分で書いた。設計事務所でも広告すべきだと、思ったからで衝動的にCM看板を作り始めた。「仕事下さい!」と書くのは、なんとなく下品だったので、こんな文章を書いた。

kanban1.jpg






ところが、これを見た近所の主婦が「お宅の現場に、新興宗教の看板が掛かってますよ!」と言いに来たと、後で施主が話してくれて大笑いした事が有る。







なるほど。携帯電話が壊れたぐらいで不便を感じているようでは、まだまだ修行が足りないと言うことなのかもしれない・・・。