Essay 25 敷居が出っ張る

近所に住んでいる田中さんから、電話が掛かってきたのは、夜の10時近くだった深刻そうな声だったので、なんだか嫌な予感がした。

田中さんとは、ちょっとしたタイミングのずれから、設計の依頼を頂き損ねた経緯がある。それは、5月のゴールデン・ウィークに入る、前日の電話から始まった。 

「実は、うちもそろそろ家を建てようかということになって、設計をして頂くことを前提に、相談に乗って頂けないものかと思ってお電話したんですけど、この休み中にでもお会い出来ませんか?」とのこと。

ところが、生憎く私がゴールデン・ウィークに出掛ける用事があった為、連休明けにお会いしましょうと言う約束で、電話を切ったのだった。 しかし連休が明けると、約束の前日に、田中さんの方から断りの電話が入った。 

「実は連休中に、住宅展示場に遊びに行ったところ、なかなか良いハウス・メーカーがあったので、話し込んでいたらなんとなく、そこで家を建てようか~と言うことになってしまいまして・・・。申し訳ないのですが、先日の話は無かったことにして頂けませんか。」

ご縁が無かったと言うことで、話しはここで終わった。それから、およそ1ヵ月。その田中さんが、深刻そうな声で電話をかけてきたのだから、楽しい話題で無いことくらい、私にも察しはつく。

「実は、掃き出し窓が出来ないんです」
「掃き出し窓って、床から窓になってるあれのことですか?あの窓が付かないって、どういうことですか?」(やっぱり、予感は当たったようだ)

田中さんの話によると、某大手の住宅メーカーと契約し、設計の打ち合わせをしていて、問題が持ち上がったらしい。何でも、そのメーカーは床のフローリングの上に、窓の敷居を乗せるような形になるので、床から3cmほど敷居が、出っ張ってしまうとのこと。その3cmが、どうしても田中さんには我慢出来ないらしい。(ム~、人のこだわりとは、どこにあるのか解らないものだ) 

「今住んでるアパートも、扉の敷居が出っ張ってるんです。あれに足を引っかけて、痛い思いを何回もしたので、家を建てる時は絶対にあれだけは嫌だと思ってたんです。大体、格好悪いですよ」
「でも、そんなもの大手のハウス・メーカーなら、何とでも対応してくれるでしょう?」 
「それが・・・出来るには出来るのですが、その会社の規格とは、違う製品を使わないと、敷居の出っ張りを無くせないために、工事費が高くなるらしいんです・・・。どうしたら良いでしょうか?」(そんなこと私に聞かれても・・・) 

「メーカーが、予算の中で床の出っ張りを無くせないと言うなら、結論は3つしか無いですね。田中さんが3cmの出っ張りを我慢するか、追加の費用を払って、床を平にしてもらうか、それか・・・。」
「それかなんですか?」
「契約を白紙に戻して、手付金をあきらめるかです。」
「ええっ!そんな~」(そんな情けない顔をされても、こちらも困る)

今夜あたり、田中家では親族会議という名の、激しい夫婦のバトルが繰り広げられるであろう事は、容易に予想が出来る。(きっと妻の勝利に終わることも)

数日後、田中さんから電話が入った。
「3cmの敷居の出っ張りは、我慢することにしました」との事。 何でも、これ以上の予算の超過は出来ないし、まして契約を白紙にして手付金を放棄することなど問題外と、奥さんにきつく言われてあきらめたらしい。仕方がない。

ここでも家造りに、男の意見が尊重されない事実を見せられた気がして、私まで落ち込んでしまった。どこの家庭にも事情があり、ギリギリの予算で家を建てる事はよく解る。だからこそ、家族の考えや意見を尊重しなければならないはず。

何よりも大切なのは、「家」を建てると言うドラマの主人公は、施主でなければならない。このことを忘れると、住む人の個性を失った誰が住んでもかまわないような平凡な「箱」造りに終わってしまうからだ。

そういう意味では、田中さんは「家造り」のパートナー選びに、失敗したような気がする。
田中さんはこれから一生、その3cmの出っ張りを見るたびに後悔するのか、慣れてしまうものなのかは私には判らない。この結論が正しいのか否かも、田中さんだけが知っていることだろう・・・。

ハウス・メーカーや工務店、あるいは設計事務所と、家を建てるときのパートナーはいくつもある。しかし、それぞれに長所も短所も、有るのならば自分たちの家造りには、誰が一番ふさわしいパートナーであるのかを、見極めることが大切なことなのだろう。

それは、ひょっとすると結婚に似ているかもしれない・・・恐ろしい・・・。