Essay 36 正義なき時代

7月13日から、天下の雪印の全工場が操業を停止した。(これは13日作成です)昨夜のニュースで、その沈痛な面持ちを隠せない社員や、直営店の人たちの表情を見た。自分達の仕事を大切にしていた人達の、戸惑いと驚きの顔だった。いつでも、辛い思いをするのは末端の人間だ。

雪印本社は、どんな苦境に立っても倒産する事は無いかもしれない。しかし、社員や直営店の人達は簡単に潰れるだろう。

私も、「組織論」は重々承知している。それに耐えられないから独立した部分もあるのだから。企業にとって、個人の「命」を「命」とは呼ばない。「会社の命」だけが「命」なのだ。

経営が悪化すれば、大規模なリストラを繰り返し、直営店や系列子会社を切り捨ててでも生き残り策を模索するだろう。その結果、苦境に立つのはいつも弱い人達。

それなのに、トップである社長のコメントは頂けない。「私は、寝てないんだよ!」のコメントには笑った。あれが、彼の本音なんだろう。その言葉の裏には、「そんな瑣末な事は、別の人が対応すれば良い!私は帰って金勘定がしたいんだ!」と想像したら、少し辛辣過ぎるだろうか?しかし彼の発言は、長い時間をかけて築き上げた信頼を、一瞬で崩してしまう瞬間だった事は間違い無い。

日本の首相もまた同じだ。記者の正式な質問に対して「お前達は嫌いだから」と言う理由で、総理としてのコメントをしない。完全に馬鹿だ、0点も付ける気がしない。





総理が公式に会見や発表すると言うのは、記者に対して話しているのではない。国民に対して話し掛けているのだ。それを一個人の感情で「話さない」と言う事は、国民に対して話しかけないという事に、どうして気が付かないのだろう・・・。イジケタ子供か?完全にお笑いだ。そして、そんな総理をもう一度「あの席」に座らせた、我々国民にもお笑いだ。





私のフィールドで話をすれば「欠陥マンションや住宅」を始め、多くのずさん設計をする「設計者」あるいは「施工者」そして「販売者」、0点と書く気もしない。赤鉛筆が勿体無い。



物を作る・販売する・流通するなどの全ての企業、あるいは会社にとっての、最重要課題は「利益を上げる」事だ。それは判る。私だって、報酬を貰わなければ死んでしまう。





だが、利益を上げるためには、どんな手段を使っても、あるいはどんなあくどい事をやってでも、と言う考え方は正しいのだろうか?辛辣な言い方をすれば、所詮ビジネスと言うものは、原価や経費の上に利益を載せて稼ぐ「かすり」が基本だ。(下卑た言葉を使っているのは承知の上だが、あえて使わせてもらう)





その、「かすめとる」と言う事が「ビジネス」と言う言葉で通用しているのは、その必要性と価値が認められているからだ。そして、もう一つ言えば、そこに「正義」があるからだと思う。



私が、設計の依頼を受けたときに「可も無く不可も無い建物」を、造るのはたやすい事だ。与えられた敷地に、何も考えずに部屋の大きさだけを落とし込むような計画ならば、30分も掛からない。

そんな適当なゾーニング、効率の悪い動線計画の家でも、お客さんには判らないだろう。あるいは、言葉で丸め込む事も、たやすい事だ。作業も簡単で経費の節約にもなり、私にとっては非常に儲かる、仕事のやり方かもしれない。しかしこんな仕事を、企業大事の利益第一主義と呼ぶのだろうか?



もし私が、そんな仕事のやり方をすれば、もう私ではない。そこに、わたしの「モラル」も、私なりの「正義」も無い、ただのアウトローになり下がってしまう。

そんな事では、詰まらないから頑張るのだ。80点の建物を100点、120点に仕上げて行こうと努力するのだ。そんな気持ちが無くて、どうして物が作れる?家も牛乳も、造ると言う行為の根っこには、「誰かの為に、自分の為に」と言う気持ちが無くてはならない。

でも、今そんな気持ちで仕事をしている人が見えない・・・。贈収賄に興じる議員や組織。国民に話し掛けることを拒む総理大臣。人命に関わる過ちを繰り返す企業。子供の心を見てあげようとしない親。生きて行く事に賢明な人達を騙す建設会社。人をいじめ殺し、笑っている子供。



企業や、人が生きていくための「必要悪」と言うのだろうか?私には、理解できないし理解したくも無い。「社会正義」などと大げさな言葉ではなく、ひょっとすると人としての「モラル」や「常識」あるいは「プライド」の欠如なのかもしれない。

一体いつから、人の心はこんなふうになってしまったのだろう。今の親は、自分の子供に「人に迷惑を掛けないようにしなさい」と教える。私の子供時代には「人様のお役に立つ人になりなさい」と教えられた。同じことを言っているようだが、実はまったく違う。

極論で言えば、人に迷惑を掛けなければ「売春」しようが「覚醒剤」を打とうが構わないと教えているのだ。決して「その行為を見たら、止めて上げられる人になりなさい」とは教えていない。自分さえ良ければ、何をしても構わない。そんな考え方に、毒されているのが今の日本なのだろう。

設計の仕事は「家族」と関わる。家庭の悩みや生活習慣・躾まで見えてしまう。だから、時々人の家庭の悩みに触れすぎて、自分が落ち込んでしまう時が有る。完全に、他人の悩みを伝染された状態になる。

そんな時私は、人気の無い美術館に逃げ込むことにしている。静かな音の無い世界で、感性だけの空間に浸って毒を抜く。だから、小さな美術館に一日中いたりする事も有る。これは、私の自浄行為なのだろうと自己分析する。そんな自浄行為を持たぬまま、毒の中に浸かっていると、いつか毒の中に浸かっている事さえ、忘れてしまう。

自分の仕事や生き様に「正義の心みたいな物を、持っていたい」と言ったら、今は笑われてしまう時代だとしたら、なんとも「寒い時代」ではないだろうか。