板橋の家は、来週末に引き渡しを迎える。本日は施主による最終確認の日。それを今までは「施主検査」と呼んでいたが、よく考えると、この「施主検査」と言う呼び方が、おかしいことに気付いた。今までは何気なく「施主検査」と言っていたが、「検査」と呼んでしまうので、施主も「どこかに傷が無いか? 汚れてはいないか? 」と、アラを探すことが目的となってしまう。
でもそういうチェックは、事前に建設会社の社内チェックで行われているし、設計事務所検査でも行っている。勿論、確認申請通りの建物が建っているかは、検査機関の完了検査で検査をしている。
それら専門家のチェックを経た後で、さらに「施主検査」という言葉を使うと、悪い所を、ダメな個所を、探してやろうというマイナスな視点で建物を見ることが目的となる。でも、それでは残念だよね。
今日も建物の外観を眺めている際に、通りかかった近所をのおばあさんが、「キレイな建物が出来ましたね。毎日、楽しみに見ていましたよ。和風モダンなんですね」なんて感じで話し掛けてきた。褒められて悪い気がする筈が無く、思わずお礼を言いながら談笑してしまう。そんなふうに赤の他人様が褒めてくれるのに、施主だけが「どこかに悪い所が無いか」と、建物の悪い点を探し出そうと目を三角に吊り上げる。本当にそれで楽しいのだろうか? 出来上がった建物を見て、まずは完成した喜びは無いのだろうか? と、思ってしまう。
「明るいね」とか「風が通るね」とか、「住むのが楽しみ」という感想の前に、「傷が、汚れが、凹みが」と、自分がこれから一生住む建物の悪い所を論う。やっぱりなんか違うと思う。でもそれはきっと、こちら側が悪い。なぜって、こちらが「施主の検査をお願いします」と言い、勘違いさせているから。これからは「施主検査」と呼ばずに、「引き渡し前の確認」とか「内見」という呼び方に変えよう。それがきっと、お互いの為だから。
写真は玄関前に設置した傘掛け。雨に濡れた傘を、ひょいと掛けて置く為のバーだ。傘立てを置くのは邪魔だし、傘掛け用のバーの既製品もあるが、用事が無い時は主張されたくない品なので、大工さんに造って貰った。大したことの無い、ただの棒のに見えるが、水切れが良いようにと考えられている。でも誰から褒められることもなく、そこにあるだけの品。こう言う所を眺めて喜んでいるのが、本当に楽しいのです。