Essay 13 想い

私は自分が設計した住宅を、自分の子供のように思っている。物を作る仕事をしている人は、多かれ少なかれ、そんな気持ちを持っていると思うのですが、私の場合は、それが特に強いかもしれない。 
住宅を設計する作業は、早くても2~3ヶ月、長い時だと1年半近くかかることも有る。そして設計が終わり工事が始まると、さらに半年はかかる。その間、毎日その住宅のことを考えているわけだから、愛着が沸いてくるのは当然のことだ。
設計している最中は、夜になるとバーボン片手に、図面を眺めていたりすることだってある。 そんな設計期間は、例えると「どんな子供になるのか」を、想像して楽しんでいる時間と言えるかもしれない。
そして、工事が始まると「上手に仕上げて欲しいなぁ~」と、祈るような思いで工事を見守る。この辺りの思い入れは、ひょっとすると施主の思い入れを上回っているかもしれない。 だから暇があると、つい見に行ってしまう。監理していると言うよりも、見守りに行っていると言ったほうが、良いかもしれないくらいである。まるで、生まれたばかりの赤ちゃんを、新生児室のガラスの向こうから見守る父親のようだ。
だから現場にジュースの空き缶や、煙草の吸殻が落ちていると、一人で拾ってしまう。 私も煙草は吸うが、もちろん携帯灰皿を持ち歩いている。 そんな調子だから、工事も終盤に入ると「ああ、もうすぐお別れだな」と寂しく感じてしまう。
 
引渡しの前の日は、一人「家」の中で別れを惜しむ。 静かに別れを惜しみたいのに、そんな私の気持ちとは関係無く、施主は「早く引き渡せ!」と、言わんばかりに荷物を運び込んだりする。少しだけ静かに別れを惜しみたいのに、それもままならない・・・。
なんとなく、娘を嫁に出す父親の気持ちになってしまう。(もっとも、そんな体験をしたわけではないが) ここまで大切に育ててきたのに、持っていかれるのかと・・・。 「大切に可愛がってもらうんだよ」と、家に話しかけたりする。(もともと、人の家なのに)
「ちょっと、オーバーだろ~!」と思う方もいるかもしれないが、家を造るには、このくらいの思い入れが有っても良いと思っている。 仕事だからと、工場のように右から左へと流れ作業で作られていくのは悲しい。 そんな程度の気持ちで作られたものは「家」ではなく、「箱」なのだと思う。
もっとも全ての建物が、そんな思いで作られているわけではない。私みたいな奴は滅多にいないと思う。やっぱり仕事なのだから、効率や経費のことを考えれば、思い入れよりも手早く仕上げることの方が、大切だからだ。勿論、私だってそういう気持ちも持っている。ただ、バランスが違うだけだ。
どんな物でも、作者の想いが入っている物の方が、大切にしてもらえると信じている。多分にセンチメンタルですけどね・・・。
そして、建物は完成する。長い時間と大勢の人の手で作られた建物。昨日まで自由に出入りしていた建物が、今日からは人のものになる。鍵を渡す瞬間がとても辛い・・・。
ところが人間とは面白いもので、鍵を渡した瞬間に、無性に次の建物への「創作意欲」が掻き立てられる。「今度はこうしよう」。「あそこは気をつけよう」と、今まであんなに別れを惜しんでいた建物の反省点が、次々に浮かんでくる。 その反省点を上手く取り入れて、さらに良い家を造ろうと気持ちが変わるのである。なんと変わり身の早いことか? もっとも、素早い気持ちの移り変わりが無ければ、こんな仕事はやっていられないし、相手が「家」なので許される。
もしも、これが女性に対してだったら、「とても嫌な奴」と呼ばれてしまう。 さっきまで、あんなに「愛しているよ~」と言っていたのに、別れた瞬間「さ~て、次はどんな女性にしようかな~?」と言っているようなものなのだから。(気を付けなければ・・・)
話が逸れてしまったが、「家」と言う無機物の建物に性別など有るはずが無いのだが、私は「家」には性別が必要だと思っているし、そのように造りたいとも考えている。
私の中では「家」は紛れも無く「女」と言う性別である。簡単に例えると、会社のような働く場所は男性的な空間であり、安らぎを求める空間は女性であると思っている。いや、そう有って欲しいと願っているのかもしれない。 それは、「母親」が持つ、包み込むような大きさや優しさに似ている。それが「家」の中に無ければ、人は帰る場所を無くしてしまうからだ。
私の好きな建築家の、故宮脇氏の本の中に「流行るBARを作るには、子宮のようにデザインしろ」と言う言葉が有り、なぜかとても素直に理解できたことを覚えている。
人様には、なかなか言葉では伝えにくいが、私はそんな気持ちで「家」を設計している。 私の「娘達」が、今日もその家族に安らぎを与えていることを願いながら・・・。