Essay 3  気持ちが悪い風景

近所でアパートを建てている。住宅地の中に建つワンルーム・アパートだ。 屋根は陸屋根で(傾斜の無い平らな屋根)本当に、ただの四角い箱のような木造(2×4)2階建ての建物だ。間取りまでは解からないが、外の形はそれなりに今風な形をしている。ちなみに、まだ完成間際で入居はされていない。
昨夜遅く、仕事の帰りにその建物の前を歩いて帰った。何気なく建物を見て思わず体が震えた。本当に鳥肌が立ってしまったのだ。それは、建物の外壁が白と濃い灰色の2色の大きな横縞模様に塗り分けられているのを見たからだ。何とも言えない嫌な気分がした。不気味と言う感じに近かったかもしれない。 住宅地に突然現れた、巨大な横縞模様の異物を見て意識が滑って行くような気がした。部屋に戻ってからも、その気分の悪さは消えなかった。そのせいか、今朝は軽い二日酔いだ。(関係無いか?)
昨夜の嫌悪感の訳を考えてみた。どうやら自分の経験や知識の中に存在しない物に、拒否反応を示したのだと思う。 これが大きなビルの並ぶ都会ならば、ショックは受けなかったかもしれない。どうやら、閑静な住宅地の中に現れたから「奴」にショックを受けてしまったようだ。
実はこんなことを、過去にも一度だけ経験したことが有る。それは10年程前に、伊豆のある小さな村落を、車で通ったときのことだった。
周りを山々に囲まれ、一面の田んぼの中に有る小さな集落だった。土色をした同じような形の民家が集まっている中に一軒だけオレンジ色の、今風の住宅が建っていたのだ。周り の色彩や風景と、あまりにもかけ離れている建物の存在が、まるで子供に悪戯書きをされたビュッフェの絵のようだったことを覚えている。
仕事柄、建物の外観や色 そしてその一つの建物が影響を及ぼす街並みのことに関しては常に考えている。日本ほど、いろんな様式の建物が乱立している汚い街並みも少ないだろう。 みんな、自分の家だからどうしようと自由だと思っているのかもしれないが、どうやら自由の意味を吐き違えているとしか思えない。一軒一軒の家の集りが街を作っていることや、その家を多くの人が見ることを完全に無視している。
京都などの古都では、行政も地域の人たちも町並みを守るための努力を惜しまない。自分たちの大切な故郷の風景を自分たちで守ろうとしている。そこには、窮屈なことや不自由なこともあるだろう。だけど、それを譲り合っているからこそ、あの町並みが人を惹きつけるのだと思う。
日本では「建築学」は工学系の学問だが、欧米では美術系の学問である。 欧米では美しい家そして街並みを考えるのに対して、日本では早く安く建てることを主流に考えている。そして、短い周期で家を建て替える。これを学校で教えているのだから、建築の勉強を学んだ人でも美しい街並みに関心が薄くなるのは当然だ。ましてや、素人にそれを考えろと言うこと事は無理なことなのかもしれない。
それでは、京都や奈良、倉敷などの一部の地域でしか美しい街並みは残せないのだろうか?そんなことは無いと思うし、遅すぎることも決して無いはずだ。これから、少しずつでも個人の意識が代わっていけば良いのだ。
20年あるいは25年と言う短いサイクルで建物が生まれ変わるのだとすれば決して諦めたものでもない。きっと日本にもきれいな街並みが出来る。人の意識が変革のときを迎えられれば…。
一建築家の端くれとしても、投げてしまうことはするまい。
子供達の心に残る故郷の心象風景があれでは、いくら何でもあんまりだろう。
それとも、もうこんな考え方は通用しない時代なのだろうか…。