会場は、1300人が入れる市民会館の大ホール。私は、前から9列目の席に座った。女性司会者に紹介され、静かに登場する五木寛之氏。ダンディーな立ち居振舞い、身のこなしは、とても68歳には見えなかった。作品と同じように、優しく静かな口調で語り始めた。
言葉・ことわざの正しい使い方や、自身が作品中で謝った言葉遣いをし、お叱りを受けた思い出話などを語り始めた。時代と共に変化する言葉、新しく生み出される言葉もあれば、使われなくなり消えて行く言葉も有る。
時代に押し流され、変革の波に飲み込まれて行った言葉の中に、「暗愁 あんしゅう」と言う言葉があると語る。この言葉は、古くは平安の時代から使われ、明治には多くの文豪が、まるで流行語のように使っていたにも関らず、昭和の初期に静かに消えて行ったと言う。
「何処からともなく感じさせる憂い」と言う意味らしいが、氏はもう少し上手に説明していた。
この言葉、敗戦のショックに沈む日本に、嫌われてしまった言葉だと語り続ける。日本は、復興する為に「明るい・元気・笑顔」と言った、言わばプラス思考な考え方や、言葉だけを大切にし、「暗い・泣く・悲しい」と言った言葉を嫌ったのだ。
経済で、見返そうと頑張る日本には、ネガティヴな言葉や思想は、必要とされない時代だったのだろう。そして、日本はアメリカにさえ勝る経済大国に、のし上がって行く。そして、束の間の夢と消える・・・・・。
氏は語る。「泥にまみれ、地面に突っ伏して号泣するようなことが、あっただろうか?いや、無かったような気がする。なぜならば泣くと言う事がマイナス思考だと、刷り込まれてきたから」。でも、もともと日本人と言う民族ほど、よく泣く民族は居なかったはずだ。古来の文学や日記を始め、清水の次郎長では、石松も大政も小政も、次郎長さえも泣いていた。やくざが、あんなに泣く国は他には無いと。
日本人とは誰かの為に、心底泣ける優しい民族だったのだ。それなのに、戦後私たちは泣く事を恥としてきた。でも本当にそれで良いのだろうか?人間が楽しい時には、体の抵抗力・免疫力・回復力が増すと言う。だが心の底から悲しい時も、同じように体は頑張ろうと努力する事も事実だと語る。
本当に心底泣けない人は、心底笑う事も出来ない。つまり、「泣く」と「笑う」は車の両輪なのだ。だから、片輪だけで走る事は出来ないのだ。
昨年、日本での自殺者は、およそ33000人も居たと言う。阪神淡路の震災が年に4回起こっているのと、同じ死者の数だ。広島に落とされた原爆が、4年に1度ずつ落とされているのと同じだと言う。
日本は病んでいる。一説に拠れば、自殺者の数の10倍は、一命を取り留めた自殺未遂者が居るらしい。つまり33万人。そして、その10倍ほど「死にたい」と思っている予備軍が要るとの事。つまり330万人が、死にたいと思っているのだ。こんな国は他に無い。
氏は演壇に置かれた「濡れタオル」を手に取った。「このタオルは水を含み潤っているから重いのです。でも今の日本人の心はカラカラに乾ききっているのだと思います。そこには一滴の水も含まれてない。」
調子良く笑う事は出来ても、心から泣く事が出来ない私たちの心。一滴の水も含まない心。
自分の命を軽んじると言う事は、人の命さえ軽るんじるのでしょう。
光りを感じる方法は、胸を張り、顔を挙げて太陽を見る事だけではない筈。背を丸め、頭を垂れた時に足元に濃い影を見つける。その時に「あぁ、私の背中に強い光が当たっているのだなぁ」と感じる事も出来るはず。
戦後、私たちは心にドライヤーを当て続け、心をカラカラに乾かせ続けてしまった。その報いが今の時代なのだろう。
もし日本に夜明けが来るのならば、その夜明け前が1番暗くなる事を忘れてはならない。と、氏は結び壇上を後にした。
なるほど。「平成人の忘れもの」とは、そう言う意味だったのか。
個性を殺し、自分を殺し続けてきた私たち。その結果、何が残ったのか?没個性化し、横並びの平均が良しと教えられ、どの家族も同じような家に住み、同じような服を着て電車に乗る毎日。どの家族も同じように旅行に行き、全ての人が中流階級を持つ現状。
低俗な薄ら笑いを浮かべる事は出来ても、心から泣く事が出来なくなった私たち。私は・・・自分の仕事、つまり「家」の事が頭に浮かんだ。
没個性・横並び・平均的・中流意識、それが今の私たちの持っている、大切なステータスの全てなのだろう。
心の無い時代が、心の無い家族を作り、心の無い家で、薄ら笑いだけを浮かべ、「我が家は幸せだ」と思い込む家族。その事に、何時までも気づかずにいては、いけない。
私は・・・・・私の造る家に、たっぷりと水を注いであげよう。せめて、私が関った人の家に、心が戻る家を造ってあげたい。その為には、私が忘れものをしないようにしよう。とても価値の有る、貴重な時間を過ごせた1日だった。
五木寛之氏の講演会を聞いて。