Essay 52 妻たちの「建築学入門」

1.“家を建てようと決心する日”

建築家、あるいは設計士と呼ばれる職業の人種は、住宅メーカーの営業マンとは違う。つまり営業がとっても下手だ。だからメーカーの営業マンのように、「家を建てる人は、いませんか~?こんな家が建ちますよ~」と言って、その気の無い人にまで、家を建てさせてしまうようなことはしない。


当然、私たちが依頼主と初めて御会いする時には、「家を建てよう!」と決心された後である。だから、それぞれの家庭で決心するまでに、どんな心の葛藤が有ったのかなど知る由も無いのだが。


初めての「お見合い」の席で、その辺りを多少はお伺いもするが、話して頂けるのは、ごく触りの部分だけで、そこに辿り着くまでの夫婦の葛藤や、ご主人の苦悩、奥さんの魂胆までもが、掌握出きる訳ではないのである。(お見合いと言うのは依頼主と私の、人柄や考え方を把握するまでの打ち合わせの事を指して、こう読んでいるのである:筆者談)


しかし、打ち合わせをしていると、その夫婦の葛藤を垣間見てしまう瞬間も有る。例えば、打ち合わせの席では、大抵ご主人より奥さんの方が良く喋る。
「キッチンは木目の扉が良いわ~」とか、「お風呂は壁がタイル張りで、出窓の付いたユニットバスが素敵だわ~」と言った調子で、ここ数年家の中では聞いた事の無いような「猫撫で声」で、ご主人にジワジワとプレッシャーを与えているのである。


この「猫撫で声攻撃」は部屋数や広さ、おまけに「2階のここに子供部屋を持ってきて欲しいわ~」と留まる所を知らず、下手をすると奥さんの話をそのまま絵に書けば、設計図は完成するのではないかと思うほどで、「一体私は、なにすりゃ良いの?」てな具合に、私にまでプレッシャーを与えることまである。


こうなると奥さんの「口撃」は留まる所を知らない。次から次へと「ああでもない、こうでもない」と、その様子はまるで日頃のストレスを、ここで晴らしているかのよう。


こんな調子で、機関銃のように喋りまくる奥さんを尻目に、ご主人はと言えば・・・・・?「心ここに非ず」と言った顔で、ぼんやりと窓の外を見ていたりする。でも奥さんは夢中で喋る。そんな対比が可笑しいのだが、ここで笑ってしまうと「全てがパァになる」から、私は可笑しいのをじっと我慢しながら奥さんの話しに、懸命に相槌を打つ。煙草の煙で「輪っか」を作り、遊んでいるご主人を横目で見ながら・・・。


得てして、住宅の打ち合わせとは、こんな調子で進んで行くのである。私の前でさえそんな調子なのだから、当然家の中では、もっと凄い事になっているのだろう。


「田中さんのとこは、家を買って社宅から引っ越すそうよ~」
「 清水さんのとこなんて、駅前のマンションの契約をしたんですって!うちも子供 が大きくなってきたから云々・・・・・」


と、残業で疲れて帰って来たご主人の食事の支度をする事も忘れ、「チョットそこ座って聞いてよ!」なんて、お預けを食らったご主人に向かって、まくしたてる姿が目に浮かぶ。


ご主人だって、時々ならそんな攻撃にも耐えられるだろうが、毎日毎日では溜まったもんじゃない!飯がどこに入ったかさえ判ら無い調子で、「とにかく早く食べて、風呂入いろ!」なんて考えながら、右の耳から左の耳に抜いているに違いない。しかし、ある日突然に諦めるので有る。


昨夜の続きと言わんばかりに「今度の日曜に、モデル・ルーム行ってみましょうよ~」と言われ続け、「ねぇ~!みよちゃんも太郎君も、展示場で風船欲しいわよね~」と訳の判らない理由で、子供達も仲間に引きずり込まれた日には、もう限界。ついにご主人は観念し「判った判った!」と返事をしてしまうのである。


この「判った」は、日曜に展示場に行く事に関しての「判った」と言ったつもりなのだが、奥さんは「家を買うこと」に同意して貰えたと、都合よく解釈してしまうから凄い。どこまで行っても「男と女」の溝は深いと言うことなのだろう。


かくして、ご主人の日曜のゴルフもパチンコも全てキャンセル!なんの因果か、ぬいぐるみが配る風船欲しさの子供達に手を引かれ、展示場に行く事になるのだが・・・。その風船一つが、何千万もする物になろうとは、みよちゃんも太郎君も知る由も無い・・・。


つづく