Essay 110 自戒

いつも傍若無人に好き勝手なことばかり書いている私ですが、これでも時々は反省したりもします。もともと設計と言う行為自体、厳密に言えば人に「何かを語る」事など必要としていないかもしれないのです。自分が思ったことだけを、自分がやりたいようにやれば良い。それを認めてくれる人だけが「クライアント」で有りさえすれば良いと言う一面を持っていた時代も確かに有ったからです。


それをそのまま踏襲するとすれば、私も誰かに語りかける必要も無いし、反省したりする必要も無いわけで、自分一人が良いように仕事をすれば良い訳です。ですが現実には、それでは仕事にはならないでしょうし、誰一人そんな独善的な建物など望まないでしょう。


どんな建物でもクライアントが居れば、その方の思考や嗜好も含まれます。それを踏まえた生産行為においては妥協も生まれれば、交渉や説得、あるいは忍耐や公共性への配慮も必要になるのが「建築行為」だと思います。


つまり「設計者」は純粋な芸術家になってはいけないと言うことなのでしょう。好き勝手に絵をかくことが出来る画家と、好き勝手に建物を作ることは許されない設計者、どう考えても同じではないですよね?
(もっとも、億万長者が設計者になれば、どうなるかは解りませんが)


近頃、こう考えるようになりました。「力ずくで、こちらを向かせる必要などは無いんじゃないか?」ってね。これは「設計者としての考え方や立場を主張しなくても良い」と言ってる訳では有りません。完全に他所を向いている人まで力ずくでこちらを向かせて、何かを話し掛けても、所詮その方の耳には届かないだろうと言っているのです。


過去にUPしたエッセイの「妻たちの建築学入門シリーズ」は、全て実在の人物ばかりですが、今でも仲良くして頂いています。でもエッセイにはとてもじゃないですが、書けないような方との出会いも数多くありました。


計画図だけ書かせて、他所の設計士に確認だけを取らせるような方もいらっしゃいます。何度も打ち合わせを重ね、資料やデーターをまとめ上げた物だけを持って行かれて、その後音信不通になる方もいらっしゃいます。そして数ヵ月後には、見事に私の計画図を元にした建物が完成していた事も有りました。たぶんに私の不徳の致すところなのでしょう。


「家を設計する」と言う行為は、たぶんに泥臭く生活の匂いがする地道な作業です。クリエィティブとは、お世辞にも言えない作業の連続かもしれません。それでも、この仕事を続けているのは好きだからなのでしょう。


だからこそ、今日よりも良い物を作るために反省や思考を繰り返し続けます。時には挑戦的な発言もするし、間違っていると思う時はクライアントであろうと「間違っていると思います!」とハッキリと言ってしまいます。でも、それが「私の役目」だと信じているし、プロの仕事だと思っています。


「クライアントの意見だから・・・」と、どんな意見でも迎合する「ただのイエスマン」が建築行為をしている限り、「家」は素敵にはならないでしょうし、都市はいつまでも醜いだけかもしれません。


そんなふうに思いながらも、こうして書いているのは、やっぱり自戒の念を含めているのかもしれません。私の考え方や発言に理解を示して頂ける方は大切ですが、批判的な方や正面からディベートを申し込んでくるような方のご意見も聞いてみたいのも事実です。きっと、その声が私を成長させてくれると思うから。


昨日よりも今日、今日よりも明日へと成長し続けたいと思いますからねぇ。
今回は完全に反省文でした、反省。