Essay 92 何がさせたいの?

突然ですが「右脳と左脳」の違いを聞いたことがありますか?例えば音楽家は右脳で思考し、医者は左脳で考える。画家は右脳を使い、弁護士は左脳で考える・・・みたいな話しのことです。つまり右脳では芸術的な感性を司り、左脳は論理的な思考を司るみたいな話しです。


私などは至って単純ですから、そう聞いた瞬間「なるほど・・・」と納得してしまうのですが、よ~く考えると、なんだか変だと思います。もし、その理屈が正しければ“絵を上手に書く医者”は存在しなくなりますし、歌のとっても上手な弁護士もいない筈ですよね?でも現実は、そんな人は沢山いると思います。


「建築」と言う仕事も、学校では理数系の学問として扱われていますが、「文系・理数系」と言う分け方だって、よく考えれば学校側の都合による、分け方でしかないような気がします。


私は元々、文系の勉強が好きでした。古文や歴史、社会と言った勉強がです。数学のように「1+1」は幾つになると言った、単純な解析よりも答えが無いものを推理することが好きだったのです。学生時代は哲学書を読みふけり、詩集に感動した時代を過ごすチョット変わった奴でした。目指せ!立原道造だったのです。(立原道造氏とは、不遇な天才建築家だったのですが、詩人としてのほうが有名です)


建築は、現在「理数系」の学問として教えられていますが、私はそんなことはどっちでも良いと思っています。いえ、それどころか「設計」と言う創作行為は、ある種の閃きよりも「こう生きるべき?こうあるべきでは?」と言う、理想や理念が大切な「文系的作業」なのではないかとさえ考えているのです。


デザインだけを優先すると、「住む」と言う行為には適さないことも有ります。かといって機能だけでもつまらない。この辺りのバランスが大切だと言うことなんでしょうねぇ~。


どんな事でもそうですが、「物事をこうであるべき!」と二次元的に見るのではなく、その後ろに回って立体的に判断する能力こそが大切だと思います。結論や考え方をまとめるのは、その後でも良いと思うんですけど・・・。


で、何でこんなことを書いているかと言うと、家を建てる依頼主の方には、稀にご自身の考え方に執着し過ぎる方が、いらっしゃるからなんです。私に設計の依頼をする前に、いろいろお勉強されたのだと思います。そして、その中から「私の家はこうあるべき!」と既に結論を出されて、私の所にくる時には、もう私の意見など「聞く耳持たぬ状態」。


私も仕事ですから、依頼主の言う通りに書けば良いのですけど、それじゃあプロとしての責任も役割も果たしてないことに成りますから、提案や意見を言わせて頂くんですが、まったく取り合って頂けない始末。一体何を求めて、私に依頼されているのか悩んでしまいます。


建物の工法や構造・材料と言った物に固執するのでは無く、気持ち良さや快適さ、家族の接し方等に固執して欲しいと言ったら、判り難いのですかねぇ~?例えば、「その土地から見える富士山の景色と共に一日を過ごしたい」とか「死んだおじいちゃんが植えた梅の木だけは切りたくない」とか「一年中、冷暖房を使いたくない」とか、こんな考え方のほうが好きなんですけどねぇ。


家を建てたいとお考えの方は、まず設計者を上手に活用することを考えるべきかもしれませんねぇ。
何を考え、何を大切にしたいのかを明確に設計者に伝えることが、一番大切な作業だと思うのです。それ以外のことは、専門化の考え方や意見を聞いた上で、「じゃあ、私はどうしよう?」と考えても、遅くないと思うのですが?


その話し合いが無ければ、どんなに優秀な設計者でも、住み手の気に入る建物を考え出すことは不可能だと思います。


例えば、イキナリ「二重サッシが使いたい!」と言った部品の話しをするのでは無く、「冷暖房の効果を考え、熱効率の良い家が良いなぁ~」と言った具合にです。なぜなら単純に二重サッシを使っても、室内での冷暖房器具の選定によっては、普通のサッシを使うよりも結露が多く発生する場合もあるからです。

また予算のことを考えれば、高い二重サッシを使うよりも、安価な普通のサッシを二枚重ね、正しい空気層を設けるほうが安く、そして高い断熱性能を生み出すことも出来るからです。これって、設計者が考えることでしょ?私の言っている意味が、解りますか?


材料の選定や工法の選択などは、その理由から判断する事が大切で、「初めに材料や工法がありきでは無い」と言う事なんです。


住宅は万人に評価されても仕方有りません。住む人である、たった一人の人の評価が得られれば良いのです。


さてさて今年はどんな方と出会えるのか?あるいはどんな家を生み出せるのか、楽しみでも有りチョット緊張もする一年の始まりです。