Essay 169 建物を保存する意味

欧米から見ると【日本の街並みは美しく無い】と言う感想を持たれると、聞いたことが有ります。その意味するところは、とても良く理解できますし、実感もしています。電柱や電線の有無などと言う二次的な問題は置いといて、建物限定で考えても、色・形・高さ・デザインのどれもがバラバラで、街並みとしての調和と言うものが全く無いと思えるからです。これを調和と伝統を重んじるヨーロッパから見たら、「なんて街並みだ!?」と言われても仕方ないと思うのです。


そんな日本の中で、最近「建物の保存」に関する問題を耳にする事が多くなりました。「古い建物を壊さず保存したい」と言う話題なのですが、先週辺りも皇后陛下美智子様の生家「旧正田邸」の取り壊し問題が、取り沙汰されていました。その他にも古い小学校の解体問題や、メジャーな所では「同潤会アパートの解体」等もあります。同潤会アパートの保存に関しては、建築家協会が正式に「保存のお願い」を提出しているとも聞きますが、その他は、ただの市民運動と言っても良いでしょう。


勿論、市民運動と言うのは大切であり、それがいけないと言っている訳ではありません。どちらかと言えば大変喜ばしい事だと思います。が、しかし!だからと言って【日本人が古き良き建物の価値を認識し、全ての建物への愛着が深まったのか?】と、大上段に構えて問えば、そうでない事は想像に容易いでしょう。


例えば「旧正田邸」。
正直に言えば、この建物は皇后様の生家であり、築70年と言う歳月を経ている以外は、取り立てて騒ぎ立てるほどの価値を建築物の中に見出せません。また百歩譲って、歴史的価値が高く保存の必要性が有ったとしても、建物と言うのは使われてこそ建物の保存だと思います。記念館として残しておいても、その建物の本来求められる目的は、遂行していない事になります。つまり住宅と言う建物ならば、人が住み続け維持していく事こそが、保存ではないかと感じるのです。


古い建物を大切に使い続けることは、とっても良いことだと思います。時には増築し、時には改装し、いろんな家族の想いや歴史を刻みながら建つ建築は、それだけで美しいかもしれません。


ヨーロッパの建物は、こうした日常生活の中で保存され続けています。でも日本の場合は、保存と言うと、直ぐに「記念館にしよう」とか「博物館としての再利用を考えよう」と言った具合に、本来有るべき姿とは違った形で残す事を「保存」と呼んでいるような気がします。


確かにそう言う保存の仕方もあると思いますが、それはあくまでも「単体の建物」だから出来る事であって、決して時代を経た建物全体、あるいは街並み全体に興味が有るのでは無いような気がして仕方ありません。


一つの建物が街並み全体に影響を与える事も出来ますが、だとしたら街並み全体は、もっと多くの範囲に影響を与える事も出来る筈です。


「旧正田邸」に限らず、建物を保存して残したいと考えるならば、「そこに住み、建物を生かしてこその保存」と言う気持ちや考え方もあると言うことを認識するべきですし、そう言う気持ちを持つことが、強いては日本の住文化への警鐘になると思います。


日本は「建物を壊す事で、新しい物を造り出して来た国」です。もしそれを変えようとするのならば、【建物が存在すれば良いと言う考え方でなく、その建物を活かしてあげる事が保存」であると言うことも、考えるべきではないでしょうか?


人の建物を保存する活動も大切ですが、自分の建物を同じように保存する事は、もっと大切な話だと思います。安直に壊す事を選択し、町民にリコールされるような町長が居るようでは、日本の建築文化のレベルは、まだまだ低いと言わざるを得ませんよね。


一連の「建物保存運動」が、今の建築物への、そして自分達自信の「住文化への認識」に対して、アンチテーゼとなることを祈ってやみません。